今月の独想記 ■

平成17年11月 「高断熱高気密とは?」

 今回の独想記は「杢の家をつくる会」のかわら版2005年9月号に寄稿したものです。

 「高気密高断熱の家は息苦しい、昔のように隙間があるくらいの方が健康的だ。」という方がいらっしゃいますが、本当でしょうか。
 省エネには、高断熱が不可欠です。しかし、高断熱をめざしていくら断熱材を詰め込んでも、すきま風が入ってくるような家では効果はありません。ではどうすれば断熱材が有効に働くのかということを突き詰めていくと、床下からの冷気が壁の中に入ってこないように気流止めを設けること。そして、湿気が壁の中に浸入しないようにすること。さらに、入ってしまった湿気を外部にすばやく排出する通気層が設けられていること。このことが重要であることが研究者の実験の結果わかりました。高断熱という目的のための手段が、気流止めや防湿層といった高気密だったというわけです。

 そうは言っても、気流止めや通気層といった専門的な言葉が出てきて、家のこととなるとなかなか理解しづらいかもしれませんので、車におきかえてみましょう。
 あなたなら、わざわざ高いお金を払って、すきま風のビュービューと吹き抜けていく車を購入しますか。すきま風があるということは暖房も冷房も効きが悪いことは言うまでもありません。つまり、できるだけすきま風がない(=高気密)方が暖房や冷房を使用する場合は、省エネで地球に優しいということになります。車と一緒で住宅であっても、もちろん、冷房をかけなくても涼しい季節には窓を開けて気持ちよい外の風を取り込んで下さい。高断熱高気密の家だからといって一年中閉めきっておく必要は全くありません。高気密の家は息苦しいなどということは見当はずれの見解だということが少しは理解して頂けましたでしょうか。

 夜中にトイレに行くのに、一念発起していく家。(昔の自分の実家がそうでした)
 「高断熱高気密」という閉じる技術によって、家の中の温度差を少なくし、開放的な間取りをつくることができるということを実感してもらいたいと思います。
 また、高断熱高気密と木の家は相反するものではありません。高断熱の家は室内温度差が少ないため表面結露や内部結露が生じにくく、木の柱や梁といった構造体にも優しい家です。長持ちする家です。

 一人一人の価値観が違うように、一概に木の家といっても千差万別です。望む家のあり方も違うことでしょう。しかしながら、レトロ趣味のごとく、昔のやり方に戻りさえすればよいという考え方には疑問を感じます。古いものを単に受け継いでいくことは伝統ではなく伝承にすぎません。伝統とは、昔ながらの知恵にその時代その時代の技術の恩恵を加味して発展していくものであるということを理解して頂きたくて、今回は高断熱高気密というテーマに絞って思うところを述べさせていてだきました。

 最後になりましたが、断熱に関心のある方にとって、いいパートナーを見つける一つのコツは、「高気密高断熱」といっている業者でなく、「高断熱高気密」とうたっている業者を探すことです。風潮に流されて、名ばかりの省エネ住宅をつくっているのか、それとも、しっかりと断熱のことをわかっているのか。言葉の順序が違うだけで理解度に雲泥の差があるからです。


平成17年 9月 「ジジ、元気でな。」

 まさかこんなにあっけないなんて。先月まではあんなに元気だったのに。

 あの瞬間のことは鮮明に覚えているが、時とともに記憶は薄れていってしまう。今日のことを記録にとどめておこうと思う。


 夜中に目が覚めた。つけっぱなしのエアコンを消そうとしたが、まだ夜風も涼しくないだろうと思い、エアコンはそのままにしておいた。1時半前だった。もう一度横になったが眠れそうもない。仕方なく、トイレに行くことにした。ジジは廊下の向こう側で相変わらず横になっていた。用を足し、トイレのドアを開けた。万が一、チャイやココが通りかかるといけないので、ドアを半分開けてトイレから出た。

 「ドキッ」とした。ジジがドアの前に座っていたのである。元気な頃のようにしゃんと立ち座りをしてこっちを見ていた。きれいな姿勢である。最近はずっと寝たきりだったので、元気になったのかと一瞬淡い期待を抱いた。「ジジ、水が欲しいのか。」と声をかけて洗面所に行ってお皿の水をかえてあげた。

 洗面所から出てくると今度はリビング側の廊下の端で横になっていた。そばに皿を置いてあげたが一向に飲む気配がないので、皿を口元に近づけてあげた。ふらふらしながら立ち上がって、皿の中を数秒眺めていた。しかし、水は飲まなかった。今考えると、飲みたくても、もう飲める状態ではなかったのかもしれない。また同じ場所に横になった。のどが「プカプカ」と鳴っている。息が苦しそうである。心配なのでしばしじっと見ていると、立ち上がって向こうに歩いて行き、いつものように右半身を下にして洗面所の前でもう一度横になった。眠くもなかったのでジジの様子を眺めていると、自分の視線が気になるのか、また立ち上がって、逃げるかのように玄関の方に向かっていった。今にも倒れそうな歩き方である。そして、よろよろとして右側に倒れ込んだ。よく見ると洗面所からの明かりに照らされて、床が濡れていた。おしっこを漏らしてしまったようだ。一瞬、家内を起こそうかと思ったが、わざわざ起こすまでもないと思い直し、リビングにおいてあるペットシーツを自分で取ってきた。

 戻ってくると、体をくねらせながら「ニャー、ニャー」とジジが鳴いていた。漏らしたおしっこの中に倒れ込んだので、体が濡れてしまって気持ちが悪いのだろうとその時は安易に考えていた。ペットシーツをジジの体の下に敷いてあげた。そして左手で抱き上げて、一緒に持ってきた濡らしたティッシュで右半身をふいてあげた。ふとした拍子に、ジジの上下していた左の胸がしぼんでいるのに気がついた。そしてしぼんだままふくらんでこないことにぎょっとした。そんな深刻な事態だとは思ってもいなかったので気が動転してしまったが、ジジはすでにもう息をしていなかった。あの瞬間、もだえ苦しんでいたのだ。目を開けたまま、口も開けたままダランとして、ジジが息を引き取った。気づいたのは左手で抱きかかえて10秒も経っていなかったと思う。

 ジジをかかえたまま、あわてて寝室に行って、家内を起こした。家内と一緒に、ジジの濡れた体をふいてあげた。少しして、ぐっすりと寝ていた息子も起こした。時計を見ると1時48分だった。


 トイレの前に座って待っていたジジは何を言いたかったのだろう。苦しくて助けを求めていたのだろうか。いや、そうではない。そうではないと思い込みたい。あの時のジジの顔は元気な時のジジの顔だった。

 今になって冷静に考えてみると、ジジの最後の瞬間を看取れたことは、「虫の知らせ」といったような迷信めいたことでもなく、全くの偶然が重なったということでもないと思う。ただただ、ジジの頑張りによってもたらされた必然だと考えている。そんな気にさせてくれるネコだった。

 みんなが寝静まったあと、ジジは暗い廊下でたった一人で必死に耐えていたのだと思う。自分自身で死を悟っていながらも、朝になって誰かが起きてくるまでは頑張ろうとしていたのだろう。ただ、朝を待つまでもなく、たまたま夜中に自分が起きてきたので、もうここで終わりにしようと決心して、その瞬間、最後の力を振り絞って立ち上り、きれいに座り直して家族に別れの挨拶をしようとしたのだと思う。奥ゆかしくて利口だったジジだったから、きっとそうだったと信じている。挨拶をしたあと、布団に戻っていく自分を見送って、きっと一人で死んでいくつもりだったのだと思う。

 しかし、自分が布団に戻らずそばにいたばかりに、何度も立ち上がらなければならなくなり、残り少ない命の灯火を使い切ることになってしまった。苦しんでいるところを見せたくなかったのかもしれない。そして、一人になれる場所まで歩いて行きたかったのかもしれない。心のやさしいジジだったから。


 よたよたしながらも、自分の視線から遠ざかるように逃げていった後ろ姿が脳裏に焼き付いている。


ジジの軽やかな歩き方が好きでした。

ジジの奥ゆかしさが好きでした。

ジジのやさしさが好きでした。

呼べば、「フーン」と返事をするジジが好きでした。


 冷たくなっていくジジの死に顔を見ているのがつらいので、その日のうちに荼毘に付した。そして、そのあと4人で映画館に行った。ジジと一緒に観る最初で最後の映画である。


ありがとう、ジジ。元気でな。

           2005年夏  ジジ永眠  享年12歳
                          050822


平成17年 7月 「石井式リスニングルーム」

石井式リスニングルーム」とはなんぞや?

 皆さんは「スターウォーズ エピソード3」はご覧になりましたでしょうか。重いテーマを抱えながらも、なぜあの純粋なアナキンがダースベイダーになってしまったのかという謎を万人に明快に納得させる今回の第三章に、拍手喝采するとともに一抹の寂しさが残りました。初期の作品、エピソード4・5・6の頃は全く関心のなかった映画でしたが、エピソード1を映画館で観てからは、見事にはまってしまいました。

 脱線はこれくらいにして・・・。スターウォーズの監督は誰もが知っているジョージ・ルーカスです。実はそのルーカス・フィルム社のスタジオが石井式リスニングルームの理論をもとにつくられているのです。

 高崎市のKB邸の地下室も、この石井式リスニングルームの考えをもとにつくられています。たまたま、今回採用した地下室メーカーから紹介されたのが石井先生でした。実のところ、自分は先生のことはそれまで知りませんでしたが、打合せに同席した施主は先生のことをよくご存じでした。それまで、対面する壁が平行にならないように斜めに配置したり、天井も斜め天井にして吸音用のガラスクロスマットを貼ったり、階段室との境の壁に鉛板を挟み込んだりと、いろいろとお金のかかりそうな計画をしていました。しかし、先生との打合せの結果、壁も天井も平行に戻し、鉛板の替わりに石膏ボードの重ね貼りに変更し、吸音部も裸のグラスウールを用いることになり、随分と安上がりになりました。先生に、吸音と反射壁の比率を計算していただき、それに基づいて壁と天井の割付も決定しました。

 石井先生は、高価な音響機器やスピーカーにグレードアップするよりも、その音を聞く部屋の仕様を石井式理論に基づいて計画すれば、より音質がよくなり、安上がりだという考えを持っています。しかしながら、どこの業界でも既得権益というものが存在します。メーカー側は開発した高価な機器が売れなくなってしまっては困ります。音楽雑誌もメーカーが広告を出してくれなければ、雑誌の単価が上がってしまい、売れなくなってしまいます。ということはメーカーが広告を出してくれなくなるような記事を出版社は掲載することはできません。よって、海外の雑誌ではたびたび取り上げられている石井式理論は日本ではなかなか取り上げられないという図式が成り立ちます。

 音に詳しくない自分でも、スピーカーの位置を微妙に動かしただけで、耳に入ってくる音がこんなにも変わるものだということを体感し、正直驚きました。目に見えないものだけに音の世界は非常に奥の深いものです。どこの業界でも、良いものをお金をかけてつくることは当たり前のことです。まやかしでない良いものをどうやって手頃な価格でつくっていくか、そこが知恵の出しどころです。

 今年発行された「地下室設計・施工マニュアル」(新日本法規発行)の音響の項に、今回紹介した石井式リスニングルームのことが簡単に説明されていますので、ご興味のある方はご参照下さい。


平成17年 5月 「尺モジュールとメーターモジュール」

 「当社はメーターモジュールを採用しておりますので、廊下もトイレも広々としております。」と自慢げに宣伝している住宅メーカーをたまに見かける。例えば、SハウスやHハウスだったり、Aホームだったり。まだまだ他にもある。「メーターモジュール」という言葉はどこか引き寄せられる魅力があるのは確かだが、本当にユーザーのことを考えて導入しているのだろうか。

 日本の木造住宅における規格寸法は圧倒的に尺モジュールである。下地材にしろ仕上材にしろ、3尺を基本としてつくられている。1尺はおよそ30.3センチ。3尺はおよそ91センチとなる。この91センチを升目として一般的な間取りは考えられている。規格が統一されることによって、材料の品質が安定し、価格も抑えられる。メーターモジュールではこの91センチという規格が100センチになる分だけ廊下やトイレが広くなるので有利なように思える。単純に考えても巾が1割広くなるのだから当然ではある。だが、何も廊下の巾を広げるためにメーターモジュールにする必要は全くない。尺モジュールであっても、必ずしも柱芯寸法で91センチにしなければならないというわけではなく、91センチで狭ければ間くずれといって、110センチにしたり120センチにしたり、自由に設定できる。ただ、廊下の巾を広げると廊下に絡むその他の部屋の寸法に影響が出てくることが多々あるので、そこのところは設計の力で解決する必要がある。メーターモジュールの利点の一つは、そういった設計の手間が省けることである。91センチの升目を100センチに置き換えて、何らこれまでと変わることなく間取りを考えていけばよいからだ。

 ただ、寸法を広げるその前に、ハウスメーカーのような大壁(柱・梁が壁・天井の中に隠れてしまう工法)でなく、真壁(柱・梁が室内に表わしになる工法)の造りにすればよい。そうすれば、9センチあったメーターモジュールと尺モジュールの廊下の有効巾は、1.5センチ程度に縮まる。わざわざ間くずれさせて廊下巾を広げる必要もなくなる。おまけに柱や梁も壁の中に閉じこめられないので長持ちし、見た目にも構造的な安心感がある。

 はっきり言ってしまえば、メーターモジュールは売る側の利益確保のための一手法である。

 わかりやすい例えとして、和室の8帖間を考えてみよう。尺モジュールの面積は13.25m2、モーターモジュールの面積は16m2。単純にメーターモジュールは尺モジュールの1.2倍の面積である。広くてうれしいと考えてくれれば施工者側は儲けものである。タタミの枚数は8枚で変わらないのに、2割り増しの工事金額になるからである。トイレにしろ、浴室にしろ、単体ではわずかな面積アップであるが、積み重ねれば結構大きなものである。延べ面積の上限が決まっているとすると、尺モジュールの時に比べてかならず、広い部屋であるリビングダイニングの面積が削られるか、収納が少なくなることになる。やっぱり、リビングダイニングは広くして、収納も尺モジュールの時の面積から減らしたくない、となると、結局は全体としても2割近い延べ面積のアップとなってしまう。イコール2割の工事金額のアップである。これが、メーターモジュールの落とし穴である。


平成17年 3月 「花粉症とスギ」

 今年もまた花粉の季節がやってきた。花粉の量が昨年の数十倍というニュースを耳にしても、幸い今のところ自分には憂うつな気分になることもない。それでも、30代を過ぎ、40代50台になってから花粉症になってしまう人もいると聞くので安心はできない。花粉症の人たちにとってみれば、その主たる原因であるスギは見たくもない存在であるに違いない。なくなってしまえばよいと考えている人たちもいるのかもしれない。しかし、スギの存在自体が悪なのだろうか。いやそうではない。

 戦後から始まった植林によるスギはありあまるほどに日本の山に育っている。しかし、使われる量があまりにも少ない。身近にある山の木よりも、船で運ばれてきた外国の木材の方が安いという理由で流通しない。流通しないので、人件費のかかる人の手によるスギ林の伐採や手入れが行き届かなくなり、スギは悲鳴を上げている。太陽光の届かなくなった密集した林の中では個々スギが生長していくのが難しくなる。もっといえば存在自体が危ぶまれる。そうなると自然の摂理として次のような現象がおこる。

 弱肉強食の動植物の世界では、子孫を必ず残していくために、存在自体が危ういもの、つまり食物連鎖のピラミッドの下部にいる生物ほど、卵や種子を多量に生み出す。そのうちの数パーセントでも生き残れば、その種の絶滅は免れるからである。それと似たような現象がスギの世界におこっている。生存していくため、スギの植物としての本能がこれまで以上の多量の花粉を発生させている。

 富山県林業技術センターというところで、無花粉スギを開発したという発表があった。10数年前、たまたま富山市内の神社で無花粉スギが発見され、その種子をもとに交配を重ね、やっと品種登録の出願にまでこぎ着けたそうである。しかしながら、親となる母樹が1本しかないため、大量に普及させるのはむずかしく、とりあえず平成23年から年間500本程度の生産体制を整え,まずは公園などに緑化用として普及していく予定とのことである。朗報には間違いないが、まだまだ先の長い話である。そうこうしているうちに、花粉症の特効薬が開発されるのではなかろうかと思ったりする。

 花粉症発症の原因は車の排気ガスとの複合作用であるということも言われているのだから、現状ではスギ花粉だけがスケープゴートとなっていると思われるふしもある。花粉のない種や特効薬の開発を期待するよりも、もっと根本的な解決方法を模索してみてはどうだろうか。ようは簡単なことである。外材よりも、日本で育ったスギをもっと活用することだ。もっとも大量に使う分野といえば、やはり木造住宅であろう。住宅メーカーのようにきれいに見える集成材の柱を使うのではなく、節のあるスギの柱をもっと積極的に使う必要がある。昔から節のないものが高級とされてきたが、節のある材にも価値を見出すことで、スギ材の流通を活性化させることができる。流通が活発になれば、山にお金が還元されるようになり、良好なスギ林が保たれ、花粉の発生量が抑えられる。


平成17年 1月 「免震住宅はどうなの?」

 昨年中越地震があってから、免震住宅が大手住宅メーカーをはじめいろいろなところで宣伝されている。コマーシャルを見ていると、確かに優れもののように思われる。しかし、良好な地盤のところでないと、役に立たないとか、阪神大震災のような縦揺れには効果がないだとか、いろいろとよからぬ情報も入ってくる。地震体験車の中で経験したあの縦揺れでもはたして大丈夫なのだろうか。本当のところはどうなのだろうか。

 「餅は餅屋」の通り、詳しい人の話を聞いた方がよいと思い、たまたま案内のきていた住宅の免震装置メーカーの説明会に出席してみた。結論からいうと技術的にはやはり有用なものであると自分の中では確信した。懸念事項であった縦揺れの問題は既に解決済みであり、技術的な問題点はないようだ。地盤に関しても、よほど悪い地盤でない限り問題ないということもわかり、お客さんの要望さえあれば、採用することに嫌悪感はなくなった。

 ただ、問題点はコストである。やはり、免震装置に300万〜350万円のお金がかかる。300万円で大地震でも倒れない家ができるのならば安いものだと考えるか、それとも、いつくるともわからない地震に300万円もの大金を出すのはばからしいと考えるのか、両極端の反応が出てきそうである。地震の多い静岡県に住んでいた自分としても、せめて車1台分、つまり200万円くらいに下がらないと、需要はなかなか出てこないと思う。約30年前に、今すぐにでも東海地震がおこるかもしれない、という通達が出された後は、ヘルメット着用で歩いて小学校に登下校したことを覚えている。あの時は本当に、「すぐにでも」という緊迫した状況だったが、あれから30年経っている。あの頃買った建て売り住宅であれば、そろそろ建て替えの時期かもしれない。

 似たようなコストという意味での単純な比較ではあるが、OMソーラーというものがある。屋根で集めた熱を暖房や給湯に利用する環境に優しい設備である。このOMソーラーの設備にも200から250万円ほどのコストはかかるが、太陽が出ていさえすれば、その初期投資は徐々にではあるが還元していける。しかしながら、免震装置は一度も活用されることはないかもしれない。まあ、活用されない方が世のためではあるが。

 耐震構造にしておけば、少なくとも建物の倒壊は免れることができる。後は、大きな家具をしっかりと固定しておけば、耐震構造でも大きな被害にならなくても済む、と考えることもできる。免震装置はいろいろな特約をつけた掛け捨ての保険のようなものだといえる。入っていれば(=つけていれば)安心。しかし、健康な人であれば(=平穏無事な世の中であれば)、もったいないものなのかもしれない。判断に苦しむところである。

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