平成16年 11月 「ユニクロと国産材」
毎週のように入ってくる新聞広告にユニクロがある。自宅からは車で10分くらいの所に3軒もユニクロの店舗がある。この頃は一時期のような賑わいはないようだが、相変わらず手頃な価格で品揃えも豊富である。もう随分前からではあるが、服でもズボンでも、さらには、靴下やパンツまでユニクロにお世話になっている。低価格であるにもかかわらず、丈夫であり、かつデザインが過剰でないのが、自分の好みと合っているからである。
しかしながら、ユニクロの出現によって日本の繊維業界は大打撃を受けてしまった。中国の安い労働力によって支えられたユニクロにはどうしても価格的にかなわないのである。ただ、価格だけの問題ではないとは思うのだが、ユニクロは数年前まで一人勝ちの様相を呈していた。我々庶民にとっては安いことは大歓迎なのだが、日本国内の産業のことを考えると喜んでばかりもいられない。
自分の関わっている建築業界でも、海外からの安い木材が大量に出回っている。そのため国内の山林にあり余っているスギやヒノキの活用の場がないのが現実であり、一部認識者の間では大問題となっている。これまで我々は山の木を切ることはよくないことであるという固定観念を植え付けられてきた。そうではないのである。山林の木を有効に活用することは、山を健全に育てることになり、災害にも強くなる。また、健全な山の栄養素が川を下って近海に流れ込み、漁場を潤すことにもなるなど、二次的影響も大きい。
また、京都議定書がようやく批准され、いよいよ来年からCO2の削減努力に待ったなしがかかってきた。若い成長過程の樹木は成熟した樹木よりもCO2をより多く吸収し、炭素として自らの体内に固定していく。電気をこまめに付けたり消したりすることばかりが省エネによる地球温暖化対策ではないということをより多くの人達が理解しなければならない。
安さだけに目を奪われることなく、広い視野を持って全体を見渡せる見識を持たなければ、日本は近い将来近隣諸国に足元もすくわれることになりかねない。
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平成16年 9月 「たまにはこんな話も」
オリンピックも終わって秋の気配も近づいてきた。それにしても今年の夏は異常に暑かった。オリンピックの選手も大変だったろうが、現場で働く職人さん達もこたえたことだろう。
オリンピックではもちろん競技自体に感動を覚えるのだが、それ以外にも、競技者の発した言葉やモットーにそれ以上の感動を覚えることがある。メダルを取った選手であろうとなかろうと、その一言一言には表現しきれない重みが感じられる。
今回のアテネで印象に残ったのは、水泳女子800メートル自由形で金メダルを獲得した柴田選手のモットーである。
「あせらず、あわてず、あきらめず」
短いフレーズながら、語呂合わせもよく、覚えやすい。それでいて、深みのある言葉である。あせって、あわてて、失敗して、あきらめる。自分自身よくあることである。そんな時に、この頃はこの言葉を思い出すようにしている。
「あせらず、あわてず」、までは心の持ちようでなんとかなるかもしれないが、最後の「あきらめず」は口にすることは簡単ではあるが、実際に行動に移すことは非常に難しい。それでも、「継続は力なり」というように、あきらめないことで自分が成長するということは実感できる。子供達には「あきらめるな」とハッパをかけているのだから、我々大人達もいろんな面であきらめないで子供達の手本になるように頑張らなければいけない。
もう一つ印象に残っている言葉を記しておく。記憶違いでなければ、これは「こけちゃいました」で有名なマラソンの谷口選手の言葉である。運動選手だけでなく、サラリーマンであっても、中高生であっても、手本となる言葉である。段階を踏んだ言い回しが丁寧でわかりやすい。自分の好きな言葉である。
「夢なき者に理想なし、
理想なき者に信念なし、
信念なき者に計画なし、
計画なき者に実行なし、
実行なき者に成果なし、
成果なき者に幸福なし」
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平成16年 7月 「いざという時には」
午後から断水のため水が使えなかったことがある。前もってわかっていたことなので、この時は何ら生活には支障はなかったが、これが突然の出来事だったら大慌てだっただろう。飲み水は最悪コンビニででも買ってくれば済むことであるが、水洗トイレばかりはどうしようもない。水洗トイレはタンクに水がたまっていることが前提なので、水がないと何の役にも立たない。最近の直接給水式のタイプだとなおさら困ってしまう。
トイレが詰まった時も結構大変だった。自分達で何とかしようとトイレ用の吸引ゴムなどを買ってきて1時間ほどパッコンパッコンやってはみたが埒があかなかった。どうも便器の形状によってはゴムがうまく密着せず、空気の圧力を利用できないらしい。結局業者さんを呼んで、数十分頑張ってもらい難を逃れたが、費用は1万数千円かかった。
子供の頃住んでいた古い家の便状は汲み取り式だったので断水でも何の影響もなかった。臭いも慣れてしまえば生活する上では全然気にならなかったので、何かあった時にはこっちの方がよっぽど役に立つ。神戸の震災の際も、トイレには苦労したらしい。建物自体は問題なくても、水が供給されないことで水洗トイレは何の役にも立たなかったらしい。汲み取り式の便所のように昔の生活器具は、便利でなかった分だけ、あるいは精密でなかった分だけ、素人でもどのようにでも扱えるというおおらかさがあった。住宅においても、こういったおおらかさがほしいと常々考えている。
他の業界と同様、住宅の業界でも現在は生産者と住む人が主役とならずに、流通がいわば主役となって、流通にのらないものは排除されてしまうという悪しき仕組みが出来上がってしまっている。大量生産しづらいものはカタログにも載らないし、カタログに載らないものは売れない。売れないものはつくらない。流通を軸とした社会構造によって、負のスパイラルを駆け上がっていくかのようにものづくりの機会が失われていく。流通というシステムが生産者及び作り手と住み手を分断してしまったこの状態を当たり前だと考えないで、一人一人が一手間かけて、つくり出す、探してくる、こういった些細な行為が大切だと考えている。
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平成16年 5月 「ダニの話」
最近は様々な住宅関連の本が出版され、その中でアレルギー関連のことが取り上げられることも多い。ただ、住宅の専門家でもとんと聞いたことのない化学物質の名前も数多くでてくることもあれば、はたまた難しい数値の比較が提示されていることもあって、わかりづらいというのが本音である。
住まいに潜むアレルギーの源として最初に頭に浮かぶのはダニだと思う。梅雨も近づいてきて、そろそろこの時期から増えてくる。ずっと以前に放送されたものではあるが、ダニ対策について、どんな専門誌よりも説得力のある、わかりやすい説明がされていた番組があるので、その番組の内容を簡単に紹介しようと思う。以前にもこのコーナーで紹介したことがある、NHKの「ためしてガッテン」という番組である。
これまでのダニ対策の常識としては、掃除機による吸引、布団干しと布団叩きなどが行われてきたが、中には逆効果になっていたものもあるようだ。ダニは人間を噛むこともなければ、生きているダニそのものはアレルゲンの原因にはならないというのである。
それでは何がアレルゲンの元になるのかというと、ダニの死骸の中から出てきたタンパク質、及びフンなのだそうだ。つまり、布団叩きはノミの死骸を粉々にしてしまいアレルゲンの元になるものをたくさんつくり出していることになり、逆効果であるというのである。
ではどうすればよいのかというと、湿度を60%以下になるように換気に気を付けること。炊事や洗濯、入浴の際は必ず換気扇を回し、湿度をこもらせない。ダニは湿度が60%以下になると仮死状態になり、生かさず殺さずのノンアレルゲンの状態になるからだ。さらに、掃除機による吸引もゆっくり時間をかけて行うこと。1m2当たり20秒が目安だそうだ。一つがいのダニがいると10日間で30万匹のダニに増殖するから、できるだけこまめに掃除機をかけることが必要なのだそうだ。
天気のよい日曜日の昼下がりの午後、近隣から「パン、パン、パン」と威勢のよい音が今日も聞こえてくる。
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平成16年 3月 「木造住宅その昔」
「日本の木造住宅の100年」という日本木造住宅産業協会から出版されている本がある。ものすごく壮大な本の題名ではあるが、内容としては過去の関連資料の整理とアンケート調査に基づく考察が主である。少々専門的な本であるが、その中には木造住宅を生業としている我々にとっても驚くべきことも書かれているので、いくつか取り上げてみたい。
「大工・棟梁などの伝統的技能者集団に構造計算の実施を求めるのは無理であり不要である、・・・。現在も2階建てまでの住宅には構造計算は必要とされないが、そうした取扱いは大正8年(1919)の時から変わっていないのである。」さらに、「昭和34年に建築学会は、今後の日本の建築構法として木造は相応しくないと決議したのだった。・・・防火、台風水害のため木造禁止・・・。」とある。
当時は研究者の意見も大工には全く届かず、筋違いのない住宅がつくられ続けてきたため、地震や台風などの自然災害の際には必ずといっていいほどの大規模な被害が発生した。このことを重要視した田辺平学という研究者が、昭和2年に出版した著書の中で「大工の手からノミを奪うこと」を声高に主張している。
このように研究者レベルと大工・棟梁の間に大きな隔たりがあったことを一因として、その当時、木造は廃止の方向に動いていたにもかかわらず、高度経済成長期の膨大な住宅需要が木造住宅の危機を救い、今でも木造住宅が建てられ続けているのが現実である。ただ、研究者レベルで廃止と決議された木造の分野の研究は当然のごとく凍結されたまま、学問研究分野として全くの進歩がなかったのもこれまた事実である。
阪神大震災を契機に、平成12年になってやっと品確法という法律が制定され、その一部として構造の仕様規定が強化されたのだが、それでもやはりRC(鉄筋コンクリート)やS(鉄骨)造のように構造計算が義務づけられることはなかった。しかしながら、構造計算ほど難解ではないにしても、極端な形態でない限りほぼ同等の構造性能が確保されるという性能表示の道も開け、木造住宅の構造的な関心も深まってきた。また、RCやS造よりも難しいといわれる構造計算の研究も進み、今では市販のソフトで木造住宅の構造計算ができるようにまで進歩した。
少しずつではあるが、経験と勘に頼ったつくりから、具体的な数値を示しての家づくりが可能になってきた。ただ、長い空白期間が影響して、まだまだ研究途上の分野であることは否めない。しかしながら構造に関して、「たかが住宅」、と考えるのか、「されど住宅」と考えるのかによって、設計者の意識レベルが確実に問われる時代になってきたことは間違いない。
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平成16年 1月 「柱の値段」
木造住宅で使われている柱1本の値段をご存じだろうか。一般ユーザーはあまり気にしたことはないのかもしないが、予想以上に安いものだということにびっくりされることだろう。スギ120角の3mもので1本当たり3千円程度、ヒノキであっても5千円から6千円程度である。もちろんこれは節のある柱の値段である。高級な和室に使われる節のないヒノキの柱などは、これに1桁も2桁も0をつけた値段になってしまう。住宅メーカーの和室にもヒノキが使われているが、この場合は、ホワイトウッド等の集成柱の表面にヒノキのコンマ何ミリという薄い板が貼られたものであることが多い。見た目は節がないので高級そうに見えるが、薄い表皮の下は外国の集成材である。こういったまがい物が日本の住宅市場には溢れている。集成材ならば集成材として堂々と使えばいいと思うのだが、メーカーにとっては高く売るため作戦であり、施主にとってはコストをかけずに見栄をはるための選択肢である。
話を元に戻すが、節を気にさえしなければ構造材に無垢の木を使うことは決して贅沢なことではない。私見を言わせてもらえば、節があった方が木らしいし、本来の姿だと思う。和室だからといって床の間に絞り丸太や無節の床柱を使わなければならない、といったような既成概念にとらわれることなく、床の仕上げが他の部屋と少し違ってフローリングでなくタタミであるという程度に考えれば、逆に節があって当然という考えも生まれてくる。マンションのようにビニールクロスやペンキのただ白いばかりの空間でなく、木のほんわかとした色彩を、コストを考えながら取り込んでいくとグッと落ち着いた空間になる。桧のピンクがかった肌合いや、杉の源平(赤味と白太)、シナの透き通るようなベージュ。ただ単に木といってもいろんな色がある。塩ビシートにプリントされた木目しか見たことのない人には逆に節のある木目が新鮮に映ることだろう。
和室だから柱梁を表わしにするという固定概念を脱ぎ捨てて、フローリングやコルクタイルが床に貼られている部屋であったとしても、柱梁を表わしにしても全く違和感はない。柱や梁といった構造上欠かせないものを壁の中に隠してしまわず、表わしにすることで安心感を抱く人もいることだろう。1本3000円の柱を見せるゆとりを堪能してみませんか。
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平成15年 11月 「無垢材と合板」
多くの人は無垢材は高いというイメージを住宅メーカーや大手建材メーカーから植え付けられてしまっており、無垢材を使うことに最初は躊躇する。なんてことはない。自分も住宅の仕事を始める前は、設計の仕事にずっと携わっていながら、「無垢材」=「高い」という考え方に完全に支配されていた。
ゼネコンでは不特定多数の人が使うことになる事務所ビルや商業施設、あるいは施主の見えない中で設計施工を進めていくことになるマンションなどの設計が主であり、個人住宅の設計はまれにしかない。初めから施主がわかっていれば、無垢材の利点・欠点を相互理解の上で木材を含めた自然素材を採用することもできる。しかし、人の価値観は様々であり、そういった自然素材の特徴を、欠点も含めて受け入れられるのか、それともクレームとして見下してしまうのか、我々設計者にも予想がつかない。事務所ビルやマンションばかりでなく、これは建売住宅にも当てはまることである。顔の見えない施主であるだけに、できるだけクレームが発生しない材料ばかりを使った設計作業に終始してしまうことになる。こういったピンポイントの提案ができない設計ほどつまらないものはないと思ったのも、自分が住宅の世界に足を踏み入れた一因である。
ここらへんで話を今回の趣旨に戻すことにしよう。
柱・梁の軸組材や仕上材では、特殊な事情がない限り無垢材を進めているのだが、構造的な面材だけは毎回無垢材と合板の使い分けに悩む。構造的な見地から判断していくと構造壁および床には無垢材よりも合板を使った方がはるかに強い構造体ができあがる。
しかし、木造住宅の世界はコンクリート造や鉄骨造と違って、この床の強さという点が重要視されていない特殊な領域である。建築基準法においては、構造壁の数量とバランスだけが問われていて、極端に言えば、床は四隅の火打梁さえあれば、どんな柔らかいものでも違反とはならない。蓋や底のある六面体の箱と、蓋と底がない四周の壁だけの箱をイメージして頂ければよいと思う。後者が建築基準法で求められている木造住宅の構造体である。あきらかに構造要素として物足りない感じがする。
では、木造住宅において、床の強さを確保した設計方法はないのかというと、そうではない。もちろんコンクリート造のように構造計算をするという方法もあるが、2階建ての木造住宅ではまれであり、もう少し簡便な方法もある。「住宅の品質確保の促進等に関する法律」の大きな柱である性能表示制度というものの中に「構造の安定」という区分があり、その中で「床倍率のチェック」というチェック項目がある。等級1は建築基準法と同じように壁量とバランスのチェックを行うだけであるが、等級2以上はさらにプラスして、床の強さを確認することが求められる。性能表示制度は任意の制度なので、確認申請のように必ず申請しなければならないというものではないのだが、申請するしないは施主の判断に任せるとしても、設計者として最低限、等級2以上の構造的な強さが確保できているのかどうかを確認する必要があると自分は考えている。
その時に、問題になってくるのが、今回の題名にも挙げた「無垢材と合板」の使い分け方である。床が強ければ、力の伝達がスムーズになり、内部の間仕切りを構造壁とする必要がなくなる。反対に、床が弱ければ、地震や風圧などの水平力を下階に伝えるために、外周だけでなく内部にも構造壁が必要になってくる。将来的にも間取りに変更がないと断言できる家庭であれば何ら問題はないのだが、テレビのリフォーム番組をみてもわかるように大多数はそうではない。躊躇なく間仕切りをぶっ壊している。あれがもし構造壁だったとしたら空恐ろしい。
将来の不確定要素を加味して、内部の間仕切りを取り払ったり移動したりすることが自由にできるようにすることと、しっかりとした図面を残しておくことが耐用性を高める大事な要素だと考えている。そのような間仕切りの考え方に基づくとおのずから、床や屋根の下地材に構造用合板を選択することが多くなってしまう。内部の間仕切りを構造壁に利用すれば設計上悩む必要もなく、自然素材を使っていることを大々的にアピールしている工務店や設計者のように無垢の厚板を床の構造材として使うこともできるのだが、ここが自分としてのジレンマなのである。できるだけ自然素材をと考えつつも、構造的な要素も無視できない。こればかりは設計者だけでは判断できないことなので、施主とよく話し合って最重要視するものは何なのかを探りながら毎回設計を進めている。
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平成15年 9月 「きれい好きな日本」
数年前には文房具から何から何まで抗菌グッズというようなブームがあったが、最近はほとんど聞かなくなった。
建築界でもINAXに代表されるように、抗菌タイルや抗菌陶器製品がもてはやされた時期もあった。しかし、INAXの後に追随して抗菌製品を商品化したTOTOも、今年から抗菌した場合の謙虚な効果がみられないとの判断を下し、この分野からの撤退を発表した。一方のINAXはTOTOとは反対に、効果はみられるという研究結果をもとに引き続き商品を市場に送りだしていく考えである。
話は飛んでしまうが、以前NHKの「ためしてガッテン」という番組で、アレルギーの特集をしていた。いろんな分野に話題はおよんでいたが、自分が興味を持ったのは、動物と赤ちゃんの関係であった。一般的に、産後から幼児期にはネコなどのペットを近づけない方がよいと言われてきた。我が家でもネコは飼っているが、できるだけ就寝中は赤ん坊とネコを遠ざけるようにしてきた。それでも、同じ空間に同居しているだけに、昼間は全くの無防備であったし、ネコを飼っていない家庭に比べればあきらかに接する機会は多かったことは間違いない。幸いにも子供はネコアレルギーにも、その他のアレルギーにもかかることなく元気に育ってくれたので、あの時期に少しは母親が気を使っていたのが功を奏したのかもしれないと考えていた。しかしながら、この番組の調査結果では赤ん坊から幼児期にネコなどの小動物を飼っていた家庭の場合の方が、子供がアレルギーにかかる割合が顕著に少ないとのことだった。一般常識と言われていたことを鵜呑みにしてきた我々は少々この調査結果に驚いた。
どうしてこのような結果になるのかという説明が番組内では放映されていたが、詳しくは覚えていない。ただ、幼児期にしか育たない免疫の機能があって、きれい過ぎる環境で育ってきた子供には、その機能が育たなかったため、いろいろなものに対してアレルギーの反応が出てきてしまうということであった。アレルギーは遺伝的な面もあるので、一概に小動物を飼っていれば、将来アレルギーにかからないと言うわけではないが、この調査結果にはうなずける点が多い。
振り返ってみれば、我々の子供のころは、家の中にいろいろな動物や虫が同居していた。ネズミに始まり、野良猫やゴキブリや蚊、ツバメも玄関に巣をつくっていた。目には見えなかったが、土間下の土の中には何千という菌や微生物が生息していたのだと思う。そんな中で育ってきた田舎ものの我々はアレルギーという話題が子供の頃出た記憶がない。
汚すぎるというのは論外ではあるが、きれい好きにも問題があると、この番組は警鐘を鳴らしていたのだと思う。大局的に言えば、小動物を飼っているいないということよりも、土に接しない生活は人間の営みとして不自然なことなのだということなのかもしれない。
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平成15年 7月 「安全はお金で買う物?」
ある現場での地盤調査に関する話である。
実際に現地でサウンディング試験を行った人と話し合ったときには、ベタ基礎であれば充分だろうという話だったのが、翌日出てきた会社としての回答は地盤改良あるいは杭工事が必要という結論だった。
このように会社組織として判断を下す人が何段階にもなってしまうと、どうしても安全に安全を重ねた結論しか出てこない。確かに安全を確保するために慎重になることは大切ではあるが、調査の結果としての保証というものが絡んでくると純粋な数値的な判断だけでなく、金銭的な要素も大いに判断に影響を及ぼしてしまう。その結果、数十万から百数十万円をかけて過剰を思われるなんらかの対策を行なわなければならない状況が正常なのかどうか疑わしい。
中には、地盤調査は行っても、その結果如何に関わらず地盤改良等を行わないかぎり地盤保証は付けられないという会社もある。ということは、地盤はある程度良好と判断されたのだが、念のために保証を付けてもらいたいと施主が思っても、余分な出費をして改良工事などを行わなければ、地盤に関しての保証はどこもしてくれない。もちろん地盤調査会社が保証しないものを工務店は保証しない。おかしな話である。
そもそも地盤調査会社と地盤改良をする会社が同じというのがネックである。調査の結果、安全と報告すれば、改良工事が依頼されない。調査費用しか支払われないので儲けは少なくなってしまう。国によって地盤調査に基づく基礎の設計がうたわれたことは非常によいことではあるが、司法・立法・行政の三権分立や設計・施工分離といったように、調査と改良工事の会社を分離しなければ、そのリスクと負担は何も知らない施主にかぶさってくるばかりである。
株式会社は利益を生み出してなんぼのモノではあるが、利益優先ではモノの本質を見失うことになりかねない。施主の方を見て仕事をしているのか、会社及び上司の方を見てノルマをこなしているのか、同じ作業をするのでもやる気も判断基準も断然違ってくる。時代にそぐわないことかもしれないが、一個人としての判断を組織が尊重できる社会になっていかなければ、社会も住まいもよくなってはいかない。
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平成15年 5月 「大工さんはスーパーマン」
3月に竣工した高崎の仕事を通じて感じたことは、大工さんは“スーパーマン”であるということである。体操選手のように筋骨隆々というわけでもないのに、あの重いかけや(建て方の時に用いられる大型の木槌)を片手で軽々と扱い、その上まるでコマネチのように(知らない人はごめんなさい)軽やかに、地上から5メートル以上もある平均台(巾12センチの梁の上)の上を動き回る。お世辞にも若いと言えない大工さん達ではあるが、いともたやすげな所作は目を見張るばかりであった。
こんな素晴らしい技術をもった人達にもっともっと活躍の場を提供してあげなければ、日本という国はまさに宝の持ち腐れになってしまうとつくづく思った。もちろん現在主流となっているプレカットの技術を否定しているわけではなく、どちらかといえば肯定派である。手刻みに活路を見出すのも一つの方策かもしれないが、もっと別の面で大工さんの力量を発揮してもらえれば、画一的でない本当に我が家と呼べる住まいが適正な価格でできあがっていくはずである。あらためて木造の世界には無限の可能性が開けているのだと実感できた。
人件費を削るためだとか、大量生産のためだとかという企業の利益優先のために、住宅ローンを払い終わった途端に建て替えたくなってしまう住宅ばかりができてしまっているのが今の日本の現実である。大工さんの世界に技術の空洞化がおきないように、我々設計者が知恵を絞っていかないと、本当にハリボテの家しか建たなくなってしまう。土地込みでないと見向きもされないつくり手が多い現実を今一度考えてみる必要がある。
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平成15年 3月 「住まいは買うモノ?つくるモノ?」
お金を払って希望の住宅を大工さんなり工務店に建ててもらうという意味で言えば、住まいは買うモノであると言ってもあらかた間違いではありません。さらに、現在よりももっと中古住宅市場に構造的にも断熱性能的にも良品の住宅が出回るようになり、リニューアルして住んでいくことに抵抗感がなくなる時代がくれば、性能やスタイルで比較検討して買う車や家電製品と同じように、住まいは買うモノと言えるようになるかもしれません。できるだけ支払いを少なくしようと値切りに値切ったうえで、他人より安く手に入れた車などはきっとその値頃感に自己満足することでしょう。でもちょっと頭を働かせて下さい。住宅の場合も果たして同じでしょうか。いや、同じではないはずです。
スーパーで野菜を買ったり、家電屋さんでテレビを買ったりするように、製品として出来上がったものを値切る分には手に入れる物に違いは発生しません。しかし、住宅の場合はどうでしょうか。値切った後に人の手によって建物がつくられていくことを忘れてはなりません。お施主さんと実際に顔を会わせて打合せをするのはハウスメーカーであれ、工務店であれ、設計事務所であれ、全て営業マンか設計者であって、概して職人さんがお施主さんと顔を会わせる機会はほとんどないのが現実です。極端な言い方をすれば、顔も見たこともないお施主さんのために、職人さんは身銭を切ってまでよいものをつくろうとするでしょうか。自分が職人だったら手間賃を安く叩かれた住宅には思い入れも半減するとともに、どこかで帳尻合わせをしようという心理が働かないとも言い切れません。さらに、監理者のいない建売住宅の場合などではその傾向が顕著に現れることは言うに及びません。
二つと同じ条件の敷地はない住宅の分野では、どんなにハウスメーカーのようにプレバブの比率を高くしても、必ず現場での職人さんの手による作業が発生します。技術大国の日本であっても、住まいづくりはやはりローテクな作業だと思いますし、またそうあるべきだと考えています。お金の授受だけによるドライな関係と割り切るのではなく、人と人の結びつきがどれだけ強いかで、できるものにはっきりと違いが出てきます。かなり時代錯誤な考え方をしていると思われる方もいることでしょうが、「住宅は完全なる工業製品にはなりえないのだ」という本質をあらためて頭に入れておくことが住まいづくりでは大切なことです。
かなり主題から話がそれてしまったので、ここで無理矢理本題に軌道修正することにします。
買った住宅は思い入れが少ない分、将来できるだけ高く売ろうとする深層心理が必然的に働きます。そのため、無意識のうちに大事に大事に使おうとして、自分達の住まいなのに、どこかよそよそしさが出てきてしまいます。それが居心地の悪さとなって我が家に愛着が持てない原因となってきます。
一方、つくった住宅は、当然、将来売ろうとする心理よりも使い切ってやろうとする心理がより働くことになります。思いっきり使い込んだ結果、たとえキズやシミが付いたとしても、使い切るという意識のもとではそれらもとかく気にならないものです。逆に、そんな一つ一つの痕跡がその家の個性を形づくり、履きこなしていくうちにジーンズが自分の体系にフィットしていくように、我が家も自分達の生活に馴染んでいくものです。
ジーンズやワインの世界では「ヴィンテージ」と言葉がありますが、住まいも年代物ほど価値があるという共通意識をみんなが持つようになれば、きっと個々の住まいばかりでなく、それらが紡ぎ出す地域の街並みも落ち着いた心安らぐものになるのではないでしょうか。
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